甲骨文字…→楷書

甲骨文字…→楷書

・甲骨文字

現在確認されている中国の最古の王朝である殷(商)は祭政一致国家であり、卜占で吉凶を判断して行政を行っていた。この卜占のときに動物の肩甲骨や亀の甲羅に内容や結果を刻んだのが甲骨文字である。

「商王朝は祭政一致国家で、人々の行動はすべて神の指図を受け、神意を伺うために盛んに卜占が行われていました。卜占は動物の肩甲骨や亀の甲羅に卜占の内容を刻んで、裏側を火に押し付けて表面にできる割れ目で吉凶を判断するものです。」(『中国まるごと百科事典』http://www.allchinainfo.com/)
・金文

甲骨文字とほぼ同時かやや遅れて表れるのが青銅器に鋳込む形で書かれる金文である。殷代、金文は祖先を祭るなどの用途で青銅器に鋳込まれていたが、西周期に青銅器が盛んに作られるようになって、用途が広がると共に銘文が長文化し、広く使われるようになった。

「西周期には殷代に増して盛んに青銅器が作られた。殷代の金文は部族の紋章や祭祀の対照となる祖先の名前を刻んだだけの物が多かったが、周代の金文の内容は、殷代と同じく祖先を祭った物の他、自分の功績や主君から賜った宝物のリストを記した物、また同様に君主の命令を記した物、娘の嫁入りを記念した物、裁判の記録、貴族同士の契約を刻した物といったように多彩となっている。字数も長い物で散氏盤や毛公鼎のように数百字にも達するようになった。」(さとうしん『金烏工房』http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/)
・篆書

秦の始皇帝が中国を統一し、統一政策の一環で、全国共通の公式書体として篆書(小篆)を制定した。篆書は春秋戦国時代に使われていた籀文(大篆)を基にして規格化された同じ太さの均整の取れた線の儀礼文字として作られ、主に皇帝の権威を誇示するための石碑に刻む文字として使われた。

「始皇帝は天下を統一した翌二七年、隴西(甘粛)、北地(陝西省北部)の両都をめぐり、祖霊の地に統一を報告した。ついで三年目からは東方の巡視にでかけた。東方巡視は民情を視察すると同時に、皇帝の権威を誇示する目的もあった。そこで各地で祭祀を行ったり、嶧山、泰山、之罘、琅邪などで自分の鴻業を石に刻んで永遠に記録させたりした。」(樋口隆康『始皇帝を掘る』学生社 1996)
・隷書

秦では、統一後中央集権体制として郡県制が敷かれ、各地に多くの官僚が置かれ、文書による中央地方行政が行われた。このため、多数の地方の小役人(隷)が公文書作成に文字を使える必要があり、簡便で書きやすい字体が求められた。そして、このころ主に使われていた書写材料は竹簡・木簡であり、それに書きやすいような幅広で角ばった字形の隷書が標準書体として用いられるようになった。

・楷書

後漢中期、蔡倫により紙が発明(実用化)された。蔡倫の作った樹皮・麻クズ・破れた魚網などを原料とする紙は、竹簡よりも軽くて薄く、なおかつ安価であり、以来竹簡・木簡に取って代わり、情報記録媒体として広く使われるようになった。しかし、この柔らかい紙は、従来の竹簡に字を書くのに使う硬い鹿毫の筆で、力を込めて書く隷書には向いておらず、徐々に柔らかい筆が使われるようになり、書体も楷書へと変化していった。

「105年に樹皮・麻クズ・破れた魚網などの原料から紙を作り出し、これを和帝に献上し、この紙は蔡侯紙と呼ばれた。蔡倫は製紙法の発明者と言われていたが、前漢代の遺跡から紙が発見されており、蔡倫は改良者と見られる。

それまでは竹の板を糸でつなぎ合わせた物や絹などに書いていたが、竹は非常にかさばるし、絹は非常に高価であったので気軽には使えなかった。蔡倫の改良でそれまでの竹では荷車に積んでいた本が片手で持てるようになったのである。非常な大進歩であり、これ以降の中国では優れた詩文・論文などは筆写により全国に広まるようになり、文化の発展に大きく貢献した。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%80%AB)

六朝時代、中国は北方の騎馬民族に攻め入られ、それまで中国を支配していた漢民族は黄河から揚子江流域へ逃れた。そこでは貴族は軍事や行政を野暮とし、文化至上主義であり、文化の先端を担っていた。貴族は政治よりも文化や芸術について熱心に語り、その中で楷書が美しく均整の取れた形に完成されていった。

「六朝時代に文学、書道、絵画などの芸術が一つのジャンルとして確立した。その担い手も貴族であった。」「書道には、東晋の書家で、山東の名門の出身である王羲之(307頃~365頃)があらわれ、「書聖」と称せられた。彼は諸官を歴任し、郡の知事になったが早く辞職し、その後は自然の中で悠々自適の生活を送った。書道の大成者でその書風は後世長く模範とされた。特に「蘭亭序(らんていじょ)」が有名である。」(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/)

そして隋の時代、貴族階級が事実上世襲されていた状況を打破するため、学力により官僚を採用する科挙制度ができた。科挙に合格して官僚になれれば将来は約束されたようなものであり、非常に多くの人が科挙合格を目指して勉強していた。科挙の国定教科書は楷書で書かれた『五経正義』であり、試験を受ける場合も、楷書により解答する必要があった。こうして広く楷書が使われるようになり、書体が楷書体に定着した。

引用だらけなのはこれを書かせた人物の指示による。