記入日 | 2016-11-23 |
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アンパンマンは、作者のひもじい体験から生まれた、飢えを救うヒーローです。
それゆえ、食べるシーンには特別な意味が込められることがあるのです。
ここでは、すべてではありませんが、劇場版アンパンマンでの主要な食事シーンや、食べ物関係の要素を見ていきます。
アンパンマン最初の映画であり、いつもとは違ったスケールでの大冒険が中心となる。
それ故に、食事シーンは、数は多いものの、それ自体が特別な意味を持つという場面は特にみられなかった。
メコイスの壺を探していたヤーダ姫にパンをあげたのが主要な食事シーン。
わき目もふらず食べまくるその様子からは、壺探しがその幼い身には過酷であったことが窺われる。
あまり派手なシーンのない本作だが、食事シーンに関しては、「飢えから救う」というアンパンマンの基本に極めて忠実に描かれている。
つまり、食事シーンらしい食事シーンはなかった。
どんぶりまんトリオはいたんだけどなぁ。
宣伝文句が面白いので引用する。
メロンパンナ
「えー、アンパン知らないの?
中のあんこはとても甘くて、一口食べれば元気百倍!
夢見るようなそのおいしさ!」
アンパンマン
「みーんなが大好き、ジャムおじさんのパンは世界一!
さあどうぞ!」
こんなにも宣伝するのは映画においては後にも先にも例がない。
自分たちのパンを世界一と自称するのも珍しい。
要するにパンを作っただけだが、格好もそれっぽく決めて、呪文もなかなか面白い。
ジャムおじさん
「さあ、今度は私が魔法を使う番だ。
ジャムカル☆マジカル ポンポンポーン!」
そして、魔法のごとくおいしいのだ。
町の人の食卓が広く被害に遭うというのはアンパンマン映画では意外と珍しい。
ロールパンナとの戦いは、食べ物を顧みない戦いといえる。
腹が減っていると悲観的な考えになってしまいがちだ。
腹を満たすことをジャムおじさんが提案したのは、理にかなっているといえよう。
地下から脱出することになった経緯を説明すると長くなるのだが、短く言えば、災難の連続だった。
肉体的にも精神的にも疲弊していたことだろう。
アンパンマンの顔を食べると再び元気が出た。
ほとんど地下洞窟での戦いだったため、食事シーンらしい食事シーンは少なかった。
顔ちぎりにドン引きのキララ姫も印象的だが、むしろ重要なのは、その前にあった朝食のシーン。
姫の食べるものなのだからまずいことはなく絶対においしいはずなのだが、そのシーンでのキララ姫は無表情で生気がない。
おいしい食事にさえ喜びを見いだせない不自由の中にあったのだ。
サニー姫は呪いのかかった宝を盗んで逃げてきた身であるため、本当のことを言えなかった。
おいしく食べていたが、出自を聞かれたあたりで食が止まった。
そして、嘘を想像以上に都合よく解釈してもらったのを見ると、再び笑顔に戻ったのだった。
後ろめたさと、考えの浅さの両面が見えるシーンであった。
意外なことに、「食べること」をストーリーの重要な部分に持ってきたアンパンマン映画はこれが初だったりする。
食事が特殊で、食べると周りに迷惑をかけてしまう主人公が、特殊な環境に居場所を見つける。
普通の食事シーンは皆無だったのだが、バイキンメカによる物資の調達方法が「食べる」ことだった。
本作あたりから、テーマ性を強く意識したつくりの作品が多くなってきている。
そして、食事のシーン、ことにアンパンマンの顔を食べるシーンに、特別な意味を持たせる作品が多い。
本作のヒロイン、ルビーは、見たところ好き嫌いもなく、何でもよく食べるが、当初はパン工場の食事を見下すようなことを言っていた。
また、みんなが仕事する中自分一人だけサボってマンゴーを食べるところにも彼女の横柄さが見える。
クリームパンダとアンパンマンに危機から救ってもらってからはその態度にも変化が見え、アンパンマンの顔を素直においしく食べた。
終盤のクライマックスではこのシーンの回想があり、ルビーの心変わりの決定打となったことが分かる。
ニャニイはネムネムの実を食べていない。
ニャニイはネムネムの実を食べないと光の粒になって消えてしまうのだが、結局ネムネムの実を食べなかった。
そして、ある時点から急激に衰弱していった。
そう、この物語では、実際に登場人物が飢えてしまうのだ。
それも、死に瀕するほどに。
食べ物が豊富にあり、ちゃんと食べていたように見えたから、飢えているなんて夢にも思わなかった。
だが、「本当に食べるべきもの」は一切口にしていなかった。
さらに悪いことに、母親代わりをしていたメロンパンナは、その話を信じず、ニャニイが倒れる直前まで問題を放置していたのだ。
不必要なものばかり食べて必要なものを食べない偏食。
それに気付かない無知。
気付いても問題を軽視。
食に関して、かなりまずいことを繰り返してしまったわけだ。
さて、現実のあなたのお子さんは、「必要なもの」をちゃんと食べているだろうか?
ハピーはアンパンマンの優しさを教わりたかったわけではなく、アンパンチの力が欲しかった。
アンパンマンが顔をあげるという行為は、アンパンマンの優しさの象徴であり、本当の正義の象徴である。
その顔を捨てるという行為は、すなわち正義の拒絶を意味する。
それを証明するかのように、その後ハピーは、力を得るため悪に加担するようになる。
一方、食べまくる姿が印象的だったグリンガはというと、悪いものを食べて急激に凶暴化した。
ニャニイとは違った意味で、「何を食べるかは大事」ということが見て取れる。
生きる喜びとは何だろうか。
様々な回答がありうるが、食べることも生きる喜びの一つと言えるだろう。
ドーリィの食べ物に対する態度は、生きること、生きる喜びに対する態度に対応する。
最初、嫌なことは避け、好きなことだけ受け入れて生きようとした。
楽しいことが楽しいと感じられなくなり、自分から生きる喜びさえも避けていった。
絶望の中から助けられ、生きる喜びに再び触れた。
最終的に、他人にも、喜びを与えられるようになった。
プルンは小さなシャボン玉しか作れないことを悩んでいた。
そのため、最初のみんなでの食事シーンでも一人だけ楽しくなさそうにパンを食べていた。
その悩みを聞いたアンパンマンがしたのが、一つ一つは小さな小麦粉が合わさればおいしいパンができるという話。
で、その実例が、プルンの目の前で空を飛んでいたというわけだ。
もちろんその味は、おいしい。
この話と関係あるかどうかはわからないが、エンディングの一番最後のシーンは、小さなシャボン玉が合わさってアンパンマンの顔の形になるというものだった。
このシーンがあったころのリンリンは、アンパンマンの優しさを理解していなかった。
もらっておいてあきれ返る態度に、そのことが現れていた。
宇宙に住むキララにとってはパンは未知の食べ物だったようだ。
パン工場のシーンでは、最初おいしそうに食べていたが、キラリの話になると急に様子が変わった。
やけ食いに近いその食べっぷりからは、自責の念と、それを認めたくない気持ちが感じられた。
本作のテーマは「歌」だが、歌と同じぐらい食べ物が重要な位置付けとなっている。
「楽しめる?そんなの変だ。
食べ物は、体が大きく強くなればいいんだ。
楽しい必要なんかない。」
カーナは、幼いころから、おいしくないであろう黒い塊を食べさせられ続けて育ってきた。
おいしいことは悪いことだと教えられて育ってきた。
しかし、最終的に、外界のおいしいものに触れ、自分の価値観の間違いに気付き、自分で結論を出した。
重要じゃない部分を端折ってこれ。
気になるなら全編見てみよう。
「食べ物を作る真心」が中心的なテーマだが、食文化の違い、食糧危機、過去の資源を食い潰すだけの世界なども、見て取れる。
最大の見どころはもちろん、アンパンマンが顔を丸ごと与えるシーン。
真心を込めてパンを作るジャムおじさんの作ったアンパンマンの顔は、言ってみれば真心の結晶だ。
それを丸ごと与えるということは、つまり、真心を余すことなく与えようということなのだろう。
ラストシーンにはやなせうさぎが登場する。
これ単体だと単なるおまけ映像的な内容だが…
冒頭のやなせうさぎのシーンは、細部の違いこそあれど、内容は前作と同一。
つまり、前作とはパラレルワールドなのではなく、同一の世界と言える。
前作の星を滅ぼすレベルの極悪なばいきんまんと、本作のバンナを励ますいいやつなばいきんまんも同一と言えるわけだ。
バンナはバナナ島のバナナに絶対の自信と誇りを持っていた。
バナナ島にはバナナがあって当たり前と思っていた。
当たり前が失われる悲しみは、その当たり前の幸せが大きいほど、深くなる。
甘い香り、明るい黄色、おいしい味を持つバナナは、まさに幸せの象徴だったわけだ。
一点の陰りもない楽しい歌バナナダンスを歌うバンナの声は、ひどく寂しく聞こえた。
本作のテーマは「復興」である。
復興は、多くのものを失った被災者だけで行うのは困難であり、外部からの助けを受ける必要がある。
しかし、それまで自立して立派に暮らしてきた者ほど、プライドを持って過ごしてきた者ほど、それを受け入れるのには勇気がいる。
バナナが幸せの象徴なら、アンパンマンの顔は救援の象徴と言えるだろう。
プライドの高いバンナは、当初アンパンマンを、救援を受け入れることができなかった。
それでも、捨て去ることができなかったのは、それが必要だと、本当はわかっていたからなのだろう。
そして、受け入れる覚悟ができた時、物語は急転直下、進むことになる。
食べ物のシーンは多めだが、重要なのはアンパンマンの顔をもらうシーン。
アンパンマンが顔をあげるシーンは何かを象徴していることが多い。
今作では「できる」ことを象徴していると言えるだろう。
一回目では、パオは、アンパンマンを気遣うことを言うが、本心を表には出していない。
「僕の顔は人にあげられないし…」と心の中で思うだけだった。
二回目では、それまで嘘をついていたことも、自分の仕事ができないことも、すべてを打ち明けた。
できないことを悩み泣くパオに対し、アンパンマンは無理に励ましたり慰めたりしようとせず、気分転換に誘った。
ストレートに食べ物の物語。
りんごぼうやは当初、簡単にりんごが育つ魔法の種を探していたが、最終的に、地道に育てるべきという結論に到達する。
お菓子の谷から盗んだお菓子が消えてしまうのは、まあシンプルに、悪銭身に付かず(物理)ってことでいいだろう。
で、注目したいのが、それに対してクリームパンダが果物を分けてあげるシーン。
食べ物をやさしく差し出すその姿は、顔をちぎりこそしないものの、アンパンマンが顔を分け与える場面を強く連想させる。
そして、これが実際にアンパンマンを意識した行為であることも、クリームパンダ自身の口から述べられている。
このとき渡した果物は、見た目はまずそうで、食べると実際にまずい。
申し訳なさそうに「おいしくないね」というクリームパンダに対して、二人は、おいしくないことを否定はしなかったものの、受け入れるような発言をしていた。
元々まずいものはまずいとはっきり言う性格の二人がそれを控えたのは、それまでの旅路で仲間としての絆が生まれていたということなのだろう。
カバオにとって食べ物はとても大事なものである。
遠足出発前からしきりに食べ物の話をしていたことからうかがえる。
楽しみにしていたお弁当を中断して遊びに加わるというのは、それほど友情を大事にしているということ。
顔を差し出されて驚くルンダに「ぼくの顔を食べると元気が出るよ」と説明したアンパンマンに対し、ルンダは「そうじゃなくて!」と反論しようとした。
結局反論をやめて食べたが、その内容は食べた後に改めて語られた。
困った人を助けたいというアンパンマンに対し、自分が損をするのにどうして助けるのか、と問いたかったのだ。
アンパンマンが顔を食べさせればアンパンマンは当然傷つく。
そこまでしてどうして、ということだ。
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